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1話冒頭、社会科見学で立て続けに“困り事”が起こるけどマナが全部解決!とか
・マナが解決することが大前提の“困り事”
・教師も「“それ”は自分の仕事だから」と諌めることもせず静観、他の生徒も困るだけで棒立ち
・マナに都合良く動くモブ→難なく解決
これらの描写から、これからストーリー上で起きるほぼ全ての出来事が“マナの功績になるもの”で“マナの優秀さを見せるツール”なのだろうと感じた。実際最後までそうだった。
(あと具合悪くなった子に対して大人に引き渡さず、医療従事者が推奨しない「薬を渡す」をしたのはどうかと思った)
マナの活躍の仕方って周囲下げありきで人の役割や受けられる称賛を奪ってるものなんだけど、それを指摘した子はいじめっことしてありすが粛清し、自主性がなくなった生徒達は「マナに頼り切りになるな」とあぐりが説教をする、等とマナの“出しゃばり”を間接的に全肯定する展開をしっかり用意してる抜け目のなさにスタッフの性格の悪さを感じた。 -
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ちょっと補足
マナが人助けする様を見せるとしても「お陰様」感があれば、愛だな…と感じれたかもしれない。
・先生や大人が「私を信じて好きにさせてくれるお陰で」
・困った時に「私を頼ってくれるお陰で」
・差し伸べた手を「貴方が振り払わないでくれたお陰で」
→「私は人助けが出来る」といった謙虚な姿勢があったら違ったのに。
(唯一お陰様、支え合い的な関係が見られた六花とは結局オタクに公式百合扱いされる程あからさまなカプ媚び描写ばかりで下品なだけだったし)
度々表現されてた“メンタルの強さ”も、愛されて育ったからそうなったと描写されるでもなく、ひたすら脇役や仲間に「流石!」と持ち上げさせる展開でしかなく、オタクも「こんな状況でも折れないマナスゲー!」と騒いでるだけのただの“ステータス”でしかなかった。
「私を誰だと思ってるの!…略…(鼻息フン)」の自信満々描写も、仲間や皆を信じてる⇔仲間や皆が信じてくれてる、だから自信を持てる!だったなら良かったのにな。 -
ドキでマナを通して描いた“愛”って
助けたいと思う「心こそが」愛としているテイで、人を助けられる「高い能力こそが」尊いと印象づけるものだったと思う。
困り事への協力(過程)や寄り添いよりも、マナによる解決(結果)と感謝され尊敬される様ばかりが強調しているストーリーからは前者の心情的な愛を感じ取れなかった。ただ表面上は前者として取り繕おうとしていたのが卑怯だと思う。
六花に呆れさせたり「人助けのため後先考えず行動してしまう」をあたかも欠点のように扱いながら、その行動による失敗描写も人からマイナスに思われる描写もなく、本当は長所だけど嫌味にならないよう欠点としていたのも卑怯。
終盤の、多くの人が怪人化していく中でマナ達と接点のある人達は人助けしていた(自己中心的ではない)から怪人化しない←マナによって愛が民衆に広がっていたから、という展開……ただの「マナを信じるものは救われる」な傲慢の象徴に感じた。