• 和尚が「ご恩を忘れぬことです」というので、恩とはなんですかと訊いたような気もするが、はたして訊いたのか訊かなかったのか、訊いても答えがなかったのかとんと思い出せぬ。おれも人なみに大きくなって、この世のことのおおよそが自由になったような気がして悠々と生きるようになった。おれはおれが大きくなって、おれなりの人生を歩んでいて、いったいだれに恩を感じることがあろうかとも思った。しかし、夜毎になんとなくあの和尚の言葉がよみがえるので、おれはいよいよこらえきれなくなって、あの古寺に行くことにした。その道中でひわいな形の地蔵がないがしろにされていたので、掃除してやって花を供えると、あの和尚の声がした。「恩を忘れていないようで、結構なことである」。だれのだれに対する恩なのか。おれにはよくわからない。おれはにぎやかしい街に踵を返した。街の夜はいつまでも明るかった。おれは心ゆくまで酒を飲んで、眠たくなったので眠りについた。