• 紅茶とは、私にとって即ち大人であった。
    湯気のたつ色つきの湯を啜り、菓子と共に嗜む姿こそ真の大人。
    成長という優越に浸りながら飲む紅茶は、きっと驚くほど美味なのだろうと私は信じて疑わなかった。

    けれど。
    けれどどうだろう。
    実際口にした紅茶。
    それは正しく"湯"であった。
    よく言えば色の着いた白湯である。
    確かに何かしらの匂いはあるが、紅茶特有の渋みだの甘みだのは感じない。
    なんか匂いの着いた白湯である。
    淹れ方を間違えたわけでも、飲み方を間違えたわけでもない。
    つまりは、これが憧れという皮を脱ぎ捨てた紅茶の真の姿というわけだ。
    私は絶望した。
    なぜ現実はこうも残酷なのかと。
    その出で立ちだけで見事に幼少の夢を砕いた残念さにはもはや感服するばかりである。
    紅茶初心者で"フレーバーティー"などという存在を知らぬ私は、それからしばらく紅茶への失望と怒りをストレートの色つき白湯で流し込むこととなったのである。
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