•  子どもの頃は何にだってなれた。
     世界を救う勇者、万能の料理人、稀代の天才画家、プロ野球の選手。変身マントも、魔法の呪文もいらない。右手に武器を構えるだけで、描いた通りの存在になれたのだ。
     ……結局。十数年のうちに思い知る。俺は救世主にも、万能にも、天才にも、プロフェッショナルにも。なんにもなれない。平和な世の中を、ありきたりな日々を過ごす凡庸な男でしかなかった。

     ――でも、そんな日常を切り裂くように。耳をつんざく産声が響いた。
     情けなく震えていた左手を、もう一度強く強く握りなおす。熱を持ち汗ばんだ掌も、鼻をつく臭いも、気にならないくらいの歓喜が鼓動となって震えた。気づけば、視界が滲んでいた。

    「……あり、がとう、ありがとう」
    「ふ、ふふ……なんであなたが泣いてるのよ」

     くしゃくしゃの顔で笑う妻は、誰よりも強く気高く、美しかった。
     何者でもない俺を、父親にしてくれてありがとう。
     次にこの右手で握ったのは、我が子の小さすぎる手だった。
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