• 73kthp6月1日
    AセクやAロマに限らず、セイ的指向やロマンティック指向は他人から決めつけられるものじゃないって本当に大前提で当たり前のことだけど
    例えば他人から見たらデミセクやデミロマに見えても、その人の自認している指向はAセクやAロマです、ということがあると思う
    これは確かにデミセクやデミロマという言葉を知らない場合もあり得るとは思うけど、それ以外に「他人から見えている部分ではデミロマやデミセクに見えるが、もっと根本的なその人にしかわからない部分でAセクだと感じるところがある」場合もあると思う
    心というのはその人のものであって、他人からは独立して存在している
    だからこそ経験を分かち合ったり、何か一つの出来事に共感することはあっても、その人の心の全てを理解できるわけではない
    なので他人から見えるその人というのは、その人の心の一部分が表出しているものであって、心の全てではない
    そしてセイ的指向は他人から見えない心の部分が主となって決まることが多いと思う
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  • スレ主(73kthp)6月1日
    他人から見えない心の部分というのは自分という存在の根本にも繋がるもので、言ってしまえば自分が自分であることを証明するものでもある
    つまりセイ的指向というのは、その「今ここにいる自分が自分であることを示す」一部分である
    だからこそ他人から自分のセイ的指向を否定されるというのは「その人がその人である根本を否定する」という、暴力的な行為に他ならないと考えている
    どんなに軽い気持ちで言っていて、かつそんなつもりは無いんだとしても、結果としては人の心を侵害する行為には変わりないので暴力だと思っている
    日本はこういうセイ的な権利や尊厳についての教育が、社会全体であまりされないままきてしまっているのでそろそろ文明開花してほしい
    とりあえず後世にAセクがいつか「治る」ものだとして伝わらないようにするためにも、その人のセイ的指向を他人が否定したり、あるいは「本当は付き合ってんじゃないの?」と茶化したりされないように、自分にできることはしていこうと思う
  • スレ主(73kthp)6月1日
    返信先: @自分 「でも他人から見えない心の部分で決まるって言ったって、異性愛者が圧倒的に多いしそれが当たり前として世の中に共有されてるじゃん」と思う人もいるかもしれない
    これは話が明治に遡るんだけど、日本は明治時代に同性愛を禁ずる条例が出されてるんだよね 
    すごくざっくり言うと条例自体は8年くらいで無くなったけど、そこから異性愛者以外に対する差別的な意識が生まれて今日まで来てる部分がある(徐々に緩和されてきているとは言え)
    こういうタブーのような空気で、異性愛者じゃなくてもそうじゃないというのは勇気がすごくいる 差別や偏見から身を守るために異性愛者のふりしたりね
    で「異性愛者が普通」という空気が醸成されてると、本当に異性愛者の人は別にわざわざ表明しないんだよね 他人から見えないところでセイ的指向を異性愛だと決めていても普通だと受け入れられてるから 意図してなくても社会のと指向が噛み合ってるとでもいうのかな
    真に多様性を尊重する社会になってほしい
  • スレ主(73kthp)6月2日
    返信先: @Qiteg8さん こちらこそコメントありがとうございます
    自分でも考えを纏めたくて書いてしまったのですが、お役に立てたのであれば幸いです