• AセクやAロマとは違う指向の映画だったんだけど、マイノリティ側がいわゆる覚醒してマジョリティ側のヒーローになって、みんなから存在を認めてもらえるようになってハッピーエンド!というあらすじのものを見た
    個人的には作品としてそんなに嫌いじゃなかったんだけど、その当事者の人が「やっぱりマイノリティはマジョリティの役に立たないと存在しちゃいけないのかと思った」みたいな感想を言ってたのを見てはっとした
    努力して社会のマジョリティ側になれば、あるいはマジョリティに認められるようなすごいことを成し遂げたら存在を認めてもらえるというのは「じゃあ何らかの理由で今までの自分と変われない、もしくは変わらないマイノリティはどうなるの?」ということになり、それはつまり根本的に差別はされたままだということに他ならない
    社会にとって生産性があれば生きていていい、と言ってるのと同じなんじゃないかと思った
    AセクやAロマに限った話じゃないとは思うけどね
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  • スレ主(mC38d.)2024年10月15日
    正直AセクやAロマでいるとやれ生産性がどうだああだという系統の言葉をぶつけられる立場に置かれやすい現状があるし、違う指向だとしても全然他人事じゃないよなと思ってる
    マジョリティから認めてもらえなくても、別にすごいことを成し遂げなくても、あなたは別に生きていることに対して罪悪感や居心地の悪さを覚えなくていい、という意識が必要なんじゃないかな
    今はSNS大正義時代で、キラキラしてる人生じゃないと生きてる価値がないように思える(あるいはそう思わされる)時代だから余計にそう思う