• 557U0d6月17日
    七夕の笹竹に幼い子が書いたであろう
    「お金がほしい」「将来成功したい」など、富貴に関する願い事の短冊が飾ってあるのを見てしまうと、残念な気持ちになる。
    おそらくその子供は日々、物質の価値の高さは存分に教わっているけれど、精神の価値はそれより低いか、あるいは無価値に近いものとして教わっているのだと思う(ここに各家庭の貧富の差は関係ない)。

    それなのに、極めて精神的な行事である七夕に参加する(させる)理由はなんだろう?
    七夕だけではなく、初詣もクリスマスも「願う(待つ)」「信じる」という精神がなければ始まらない行事。

    物質的な欲望を発散させるために、精神的な行事を利用しているのだろうか。

    常日頃、物質に価値を置いた教育を子供に施しているのなら、物質的な欲望は、物質的な努力で叶えるよう教えたらよいのでは?

    もし精神的な行事を楽しみたいなら、精神の価値も同等に教えるべき。

    精神的な行事に、物質的な欲望をねじ込む行為は、ある種の侵犯と思う。