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ご質問の文は二通りの解釈が可能です。
・人権を尊重されてると感じるのはどんなときか?
・人権という概念の存在根拠はどこにあるか?
ご質問の意図はどちらでしょうか? -
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本来の意味と違うなら安易に人権なんて表現を使うべきじゃないよ
あなたが意図する人権は権利ではなく感覚だから環境や育ちによる考え方が根拠になる -
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ありがとうございます。
「生活する上で当然の権利(これを私は「人権」と表現しました)を行使する機会はあると思うけれど、それについてためらいを持たないのはなぜか」という意味でした。
質問文中の例で言えば、列に割り込まれたときに、人は「先に並んでますよ」と言う権利があると思います。そこに疑いはないのですが、なぜか「自分にはその権利はない」と感じてしまい、悩んでいます。他の人はどうやらそう感じないらしい、自分に権利があると思えばそれをためらいなく使うらしい、その感覚(なぜためらいなく使えるのか)を知りたい、という意図です。 -
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ありがとうございます。
私は「許可されている」という意味で「権利」という言葉を使いました。そのため、「権利ではない」というのはピンと来ません。「話しかけてもいい」「怒ってもいい」といった事象が、他人から許可されるようなものだと感じないということなのでしょうか。それだとしたら納得がいきます。
それとは別に、「感覚である」というのはとてもしっくりきました。 -
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あなたの例は「人権」とは違いますので、言葉が違います。
それはさておき、なぜあなたがその権利がなく感じるのかは、あなたの自己肯定感が低いせいかと思います。
そのせいで自分なんかがこんなことをして許されないのでは…と不安に思ってしまうのでしょう。 -
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ありがとうございます。
自己肯定感が低いのは承知の上で、なぜ他の人は「人間として最低限の扱いを受け、尊厳を保つ権利」を行使できるのか、それを行使していいというのはどんな感覚なのかを聞きたかったです。
他の方にも言いましたが、「人間として最低限の扱いを受け、尊厳を保つ権利」を「人権」だと感じないということは、やはり許可されるようなものだという意識がないのでしょうか。興味深いです。ありがとうございます。 -
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責任感ですかね。権利を他人由来にするというのは自分で自分の行動に責任を持ちたくないということの裏返しだからです。
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例え話、結果みたら、相手が悪いよな。
割込みされたほうからみたら、譲ったになる。奪われたにもなる。対象的に書くと
譲るんだから、感謝くらい言えよって感じ。図々しいな、相手。むかつく。なんで私の権利を奪うんだになる。それを人権になってる、かなぁ?
人として相手に対等扱いされてない気がして不安って話?相手がおかしいから、同じになんかなりたくないよ。なったらやばいじゃん。
たいてい何も言わないよ。やばいやつとか変わりたくないし。3分くらい待つ程度ならリスクない回避選ぶもん。
強者だと、並んでましたけど急ぎならどうぞって笑顔で言っちゃう。相手が気まずいならザマァだし、お礼言うなら良いことしたになる。
割込みが嫌なら、穏やかに並んでますよと話せば、勘違い割で謝ってどいてくれるけど、稀にめんどくさいやついるから。
関わらない気にしないでよくない? -
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丁寧なご説明ありがとうございます。語句の使い方が独特なので、簡潔に回答することが難しいです。整理しながら書いてみますね。
人権は誰にでも与えられる無条件に与えられる権利のことです。生存権や職業選択の自由などですね。それがないと人生が危機に陥るものを一般に人権と呼びます。
一方、人に話しかける、割り込みを注意する事は、行使しないことにより尊厳や命が破壊されたり(傷付く、損するというレベルではなく破壊です)する可能性が低いので人権とは呼ばれません。国連の人権理事会も、割り込みを注意する権利を守るために働いてはくれないでしょう。しかし、広い意味で権利ではあると思います。
あなた以外の人は権利(人権ではありません)を躊躇いなく使えるという認識をお持ちのようですが、その認識自体疑問があります。
割り込みをされたけど注意出来ないとか、他人に話しかけづらいとか、それはありふれたことです。
権利は、しばしば他人の権利や道徳と衝突します。また、自分が権利を持っているのか確信できない場面もあります。
「割り込みされた?いや近くの商品を見てるだけかも(権利があるかの不安)、注意したら相手を不快にさせるかも(嫌がる事をしてはいけないという道徳との衝突)」という風に。
あなたが権利をなかなか行使できないのは、相手の権利や感情を、無意識に重く評価するからかもしれませんね。
一方、権利を行使できる場面も様々あります。
単純に損をしたくない気持ちが強い場合、行使せざるを得ない場合(体調不良で休むとか)、別の人の権利を守るために行使する場合(自分の後ろにも人が並んでいる場合、割り込みを許すと後ろの人も損しますよね)……それらは個別に評価すべきで、共通点を見出し一律に議論するのは難しいと私は思います。
ここからは蛇足です。
主さんが行使できること・できないことを比較してみたらヒントが得られるかもしれません。主さんはここに質問を投稿なさいました。何故投稿するという権利は行使できたのだろう?というように。 -
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まず人権と関係ない話だという意見もありますが、関係あると考えられると思います。
その根拠を示せる情報でもあるかと人権+割り込みで検索したら、これが上位に出ました。
ttps://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/kuseizyoho/kuseizyoho-zinken/kuseizyoho-zinken-keihatsu/kuseizyoho-zinken-keihatsu-kadai/hpg000000926.html
東京の品川区の「人権に関する動き」という情報ですが、「行列への割り込みや弱者に対して何気なくしてしまう言動…(中略)…まだまだ生活のすみずみにおいて人権感覚が生かされているとはいえません。」というくだりがありました。
ところで人権は世界史の中でも近代ヨーロッパで起こってきた思想なので、元から自然にあるものとかじゃないですよね。
「人権がある」と思えるためには、社会の構成員がその思想を共有している必要があると思います。誰も人権を知らない社会で一人声高に人権を主張してみても空しいでしょうね。
でも現代では人権思想は国際社会で広く擁護されていて、幸い日本の最高法規(憲法)も大きな柱としています。そこに一番強い根拠と信頼がありますね。
きっと法律を専門に扱うような場所(例えば裁判所)では、人権が保護されているのを感じやすいだろうと思います。
どこででもそれと同じように感じられるためには、有識者みたいな一部の人だけじゃなく草の根の市民一人一人が人権の価値を理解して、日常生活の中でそれらしい行動を実践しなければならないと思います。
今の日本で人権があると思いにくいということは、国の人権尊重主義が形骸化していて、実質的には「人権を知らない社会」に近い国に成り下がってるってことじゃないでしょうかね。事実「人権後進国」なんかで検索したら日本がそういう国だと裏付けられそうな記事が結構出てきますね。
日本人は(やや眉唾ですが)真面目だとか勤勉だとか言いますね。また(本気かは別として)真面目な話の中で結構「努力」を持ち出す人々だと思います。
だったら日本人はちょっと真面目に人権を学習して生かす努力をしないと格好つかないし、今は国際的な信頼が揺らいでると思います。真面目が見せかけじゃないことをみんなで証明しなきゃいけないと思いますね。 -
何を根拠に人権があると感じますか?
自分は人権がないと感じるので、教えてほしいです。
ここでいう人権とは、人間として最低限の扱いを受け、尊厳を保つ権利(存在してもいい、行列に並んでいるときに割り込まれたら怒ってもいい、相手が嫌がってなければ人に話しかけてもいいなど)とします。