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→セイ被害によるトラウマの治療は「他人とセイ的な接触をできるようにするため」ではなく、(被害の種類が何にせよ)セイ被害が上記の自己決定権を著しく損なう行為だからこそ「自分の人生を誰にも強要されず、自分で決めることができるようにする」ためじゃないかなとも思うからです。あとはやっぱり、被害の経験に対してどう向き合うかは人によって本当に千差万別(セイに関するものは一切見たくない場合だったり、逆にものすごく能動的になったり、今までとそこまで変わらなかったり本当に色々)のもあるかと思います。
だから自分と他人で行為をしたくなくても、他人と他人とのセイ的なものを見たり聞いたりする場合でAセクだというのも個人的には違和感はないし、セイ被害にあった経験があってもセイ的なものを見聞きできることは「何だ見れるんだから受けた被害は大したことないじゃん」とも思わないです。被害は被害で矮小化されるべきではないし、指向は指向で他人から決めつけられなくていい→ -
ケイドセクshaルという指向もありますが、これは「過去のセイ的なトラウマのために現在はAセクであると感じている」という、Aセクというラベルの中でも細分化されたものです。ただしこれも「元はセイ的に他人に惹かれていたけど、トラウマがきっかけで他人にセイ的に惹かれなくなった」場合に使われたり、後はやっぱりそう自認することで自分の人生にすとんと腑に落ちて前に進める部分があるかとか、ご自分でラベルを見た上で考える部分が大きいんじゃないかな……と思います。そして考えた上でAセクじゃなかったとしても、別にご自分が他人と行為をしたくなければ全然しなくてもいいのだと思います。セイ的自己決定権(誰にも強要されず、自分でセイ的なことをしたいか否か決める権利)は全てのセイ的指向の人に存在するし→